![]() ![]() 序章:花巻市内 ![]() ![]() ![]() 古い船。![]() そして電信柱。
北上川に猿ヶ石川が合流する地点から下流にかけて凝灰質の泥岩層が露出する場所。
賢治は、ドーバー海峡のイギリス側海岸に見立ててここを「イギリス海岸」と名付けた。
賢治による主観的な命名とされている。
近年は環境の変化によるのだろうか、泥岩層の露出は少ないようである。
筆者も何度か訪れているが、未だにお目にかかれていない。
賢治の作品としては、短篇『イギリス海岸』がある。
その中では、イギリスのほかに、イタリア、フランス、スウェーデンなど、ヨーロッパの国々の名が見られ
ヨーロッパ的な景観への憧れと同時に、賢治の地質学的な見地から、
太古の周辺状況について科学的な考察が成されている。
詩篇「薤露青」、童話「銀河鉄道の夜」に記されている「プリオシン・コースト」とも関係の深い場所であろう。
川沿いには、現在数百メートルにわたり遊歩道が整備されている。
川底の露出が無い状態では、筆者にはイギリスの海岸というよりむしろ、ロンドンを流れるテムズ川岸にも
似ているように思われる。
川岸には胡桃の木が植えられている。落ちている実をひとつ拾ってきたのだが
筆者の居住している場所の近くを流れる阿武隈川流域に自生する胡桃とは、形が異なっていて、
種類が違うようである。同行の雷鳴君が、図に書いて見せてくれた。
![]() ☆★ 羅須地人協会 ★☆ ![]() ![]() ![]() ![]() ![]()
この建物自体は、賢治の母方の祖父の隠居所だったらしい。
明治37年(西暦1904年)に新築ということから、賢治が「羅須地人協会」を設立した頃には
「築20年」以上経過した建物だったということになる。
元々、川口町下根子桜(現・雨ニモマケズ詩碑存在地)に建っていたものを
岩手県立花巻農業高等学校内に移設したものである。
賢治が住み始めたのが、大正15年、昭和元年(1926年)。
花巻農学校教諭の職を3月末で辞し、4月から独居自炊生活が始められた。
「羅須地人協会」としての活動はその年の8月ごろからと、されている。
青年達との開墾、レコード鑑賞会、楽器の練習などが行われたようである。
その活動の理論的な支柱になったものは、農学校辞職の直前の1月に開校され、3月まで実施された
公開講座「岩手国民高等学校」で賢治が講義した「農民芸術概論綱要」であろう。
「羅須地人協会」としての実際の活動期間は、昭和元年の8月頃から昭和3年の8月頃までで、
活動が新聞に掲載されたことで、当局からの取調べ、また、賢治自身、稲作対策に奔走したために
健康を害したこと等により、2年間足らずであった。
筆者が思うに、この2年間が、賢治の希求した農村社会の理想を具現化した最良の時期だったのではなかろうか。
「羅須」の由来についてはさまざまな説が論じられている。
原子朗著「新・宮沢賢治語彙辞典」(東京書籍)に詳しく10以上の説が録されている。
筆者も手元にある国語辞典(「新明解 国語辞典」/三省堂)で「羅」と「須」について引いてみた。
「羅」の第一義は「鳥をとるあみ」で、「須」は「必要とする」とある。
協会の活動期間は、ちょうど賢治の「銀河鉄道の夜」創作期間にもあたる。
筆者は、「銀河鉄道の夜」の中の登場人物「鳥を捕る人」を思い浮かべてしまった。
もっとも、作品の中ではあみなど用いずに不思議な方法で鳥を捕っていたが…。
参考資料:建築マップ羅須地人協会 3652
![]() ![]() ☆★ 羅須地人協会跡地・雨ニモマケズ・詩碑 ★☆ ![]() ![]() ![]()
この詩碑は、賢治の没後3年目の昭和11年に建てられたものである。
碑文は、高村光太郎の揮毫で、「雨ニモマケズ」後半部分が彫られているこの詩碑の所在地は
羅須地人協会の跡地である。
賢治の研究していた俳優の故 内田朝雄氏は、著書「私の宮沢賢治」(農山漁村文化協会)中で、
この場所について特に感慨深い文章を書いておられる。
筆者も幾度となく訪れているが、なんともいえない崇高な雰囲気をもっていて、
時が止まったような感覚をいだかせる。
言葉では、上手く表現できない。賢治を想う全ての人々にとって、ここはやはり、一種の聖地なのだろう。
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